先日
生きがい論のシリーズの飯田史彦先生
の講演会に行ってまいりました。
先立った方は、
あの世でどのように暮らしているのか?
がテーマで、
さらにはどの本にも書かれていないことを
話されるというので、
とても楽しみに傾聴しました。
いろいろと興味深い話が伺えたのですが、
講演の内容をここでバラしてしまうわけにもいきません
(なにせ、本に書けないことを話されたわけですから)
それで、いろいろ考えて、
この一点だけなら、
きっと先生も
大目に見てくださるのではないかと思い
(とは言っても、お墨付きではありませんが・笑)
書いてみたいと思います。
とある遺族の方からの、こんな質問。
「あの世に先立った人たちは、
どんな風にこの世の私たちを見守っているのか?」
それについて、先生は次のように答えました。
「公園で遊ぶ子供を見守る感覚で、
私たちを見守っているのです」
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子供を公園に連れて行き、遊ばせていると、
つまづいて転んだり、他の子と喧嘩したりします。
しかし、ここで保護者が首を突っ込んでしまっては、
子供は成長しません。
放っておくと、自分なりの解決方法を見つけて、
また遊び始めます。
そういう子供の姿を見る感覚で、
あの世に旅立った魂は私たちの生活を見守っている、
というのです。
これ自体、とてもいい話だと思ったのですが、
帰り道でふと、こんな考えが浮かびました。
これは今を生きている私たち自身にも
応用できるのではないか、と。
例えば、ネットをやっていると、
いろいろと不快なことに出会います。
SNSでユーザー同士が揉めていたり、
炎上商売をやっている人がいたり、
フェイクニュースを流している人がいたり、と。
以前の私は、こういった事に腹を立て、
できる場合はひとつひとつ
首を突っ込んでいたのですが、
今は一切やめてしまいました。
正に〝公園で遊ぶ子供を見守る感覚〟で、
傍観するようにしたのです。
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すると、どうでしょう。
穏やかに日々を過ごせるようになったのです。
人間、時には何かに怒ることも必要でしょう。
しかし、それ以上に、
〝公園で遊ぶ子供を見守る感覚〟
でこの世界を眺めやって暮らす方が、
よっぽど有意義で意味のある事だと思うのです。