terra〜物語のガードナー

物語を紡ぎ出すことに人生を費やしているインディーズ作家・多部良蘭沙が、日常で感じたことを綴るブログです。どうぞ、よろしく!

もうひとりの自分

 

アンネの日記』が私の愛読書。

 

とても好きで、

 

ドイツを旅行した際、

 

アンネハウスを見たいがためだけに、

 

アムステルダムに寄ったことがあります。

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この本にはいろんな魅力がありますが、

 

いちばん印象に残ったのは、

 

人間の多重性に気づくところです。

 

 

アンネは、

 

「家族や友達と冗談などを言い合ったりして、

 

明るく話しているときの自分」と

 

「静かに一人で物思いに耽っている自分」が

 

まったくの別人であることに気づき、

 

人間には様々な一面があることを悟るのです。

 

 

これは、誰もが成長するに従って、

 

発見することでしょう。

 

 

しかし私は、こういう気づきとは違って、

 

同じ時間にふたりの自分が同居しているのを

 

感じたことがあります。

 

 

今から2年半ほど前、

 

私は母を病気で亡くしました。

 

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息を引き取ったとき、私は泣いてしまったのですが、

 

それとは別に、

 

もうひとりの自分が、

 

泣いている自分を冷静に見つめているのです。

 

それは、今までにない不思議な感覚でした。

 

 

あれは何だったのだろうとときどき考えるのですが、

 

やはり自分という存在は、

 

ひとりではないんだなと考えています。

 

肉体としての人間の存在は仮の姿。

 

精神の奥に、

 

じつは本当の自分がいるのだと考えています。

 

アマチュアこそ誇らしい

 

私は小説を書いています。

 

とはいっても職業作家ではなく、

 

インディーズ作家として、なんですが。

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こう書くと、

 

「ああなんだ、ただのアマチュアか」

 

と思われるかもしれません。

 

 

しかし私は、

 

「アマチュアだからこそ、むしろ誇らしいのだ」

 

と考えています。

 

 

 

そして私以外にも、

 

様々なことに趣味レベルで取り組んでいる方が

 

いらっしゃるかと思います。

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が、そのなかにはアマチュアであることに

 

引け目を感じている方がいるかもしれません。 

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それできょうの日記は、

 

他人の受け売りになってしまうのですが、

 

「アマチュアは未熟者の名称、

 

プロフェッショナルこそ誇らしい」

 

という世間一般に浸透している

 

イメージを覆すようなお話をしたいと思います。

 

 

来年、東京で56年ぶりにオリンピックが開催されます。

 

この大会は近代五輪の夏季大会としては32回目で、

 

1896年のアテネ大会で開かれたのが皮切りでした。 

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そして、当時は厳格に出場選手はアマチュアのみ、

 

と定められていたのです。

 

 

さらにこの場合、アマチュアというのは、

 

アマスポーツ選手という意味だけではありません。

 

一切、なんの職業にも就いていないことが

 

条件になっていました。

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なので、

 

「本職ではパンを焼いているレスリング選手」

 

とか

 

「大工を生業としているマラソンランナー」

 

も参加できなかったのです。

 

 

では、この場合のアマチュアというのは

 

誰のことを指しているのかというと、

 

王侯貴族のことなのです。

 

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そして、プロフェッショナルというのは、

 

王侯貴族に雇われるひとたちのことを

 

指していたのです。

 

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プロといえば聞こえはいいですが、

 

実際には食べていくために作らなければならないため、

 

場合によっては「こんなの芸術じゃないよ」

 

としか思えないものであっても

 

「売れるから」という理由で、

 

世に出さなくてはならなくなります。

 

 

その点、アマチュアはその縛りがありません。

 

世間の価値観にとらわれず、

 

自分が心から

 

「これこそ真に価値あるものだ!」

 

と思えるものを

 

生み出していいことになります。

 

 

もちろんそうなると、

 

作品がお金になる確率は低くなりますが、

 

商業主義と一線を画した作品を

 

世に送り出すチャンスも生まれます。

 

 

『ひまわり』で有名なゴッホは、

 

生前まったく売れない画家でした。 

 

 宮沢賢治もその名が知られるようになったのは、

 

死後のことです。

 

 

ほんとうに価値のあるものは、

 

時代を超えて生き残ります。

 

たとえ今は収入にならなくても、

 

未来になにかを残せるのであれば、

 

その行いは最良のものとなり得るし、

 

誇るに値すると思うのです。

 

 

(プロとアマの原点については、ひろさちや氏の著書から引用させていただきました)

 

 

自分がこれでいいと思ったら、それでよい

スマホに差し込んだイヤホンを耳に入れるだけで

 

音楽鑑賞は十分というひとにとっては、

 

なんだかよくわからない話で恐縮だが、

 

私は単体コンポーネントでシステムを組んで

 

音楽を聴いている。

 

 

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私のオーディオシステム。昔から木の温かみが好きなので、なるべく木目を取り入れました。

 

ピュア・オーディオを追求しているわけではないので、

 

ほんとうに音響にこだわっているマニアからすると、

 

そうたいした音ではないのだが、

 

個人的には満足している。

 

 

つまり、

 

ここがオーディオのいいところ。

 

「自分がこれでいいと思ったら、それでよい」

 

のである。

 

 

もちろんこれが趣味ではなく、

 

クラシック喫茶を開業するためだとしたら、

 

とうぜんそこに置くオーディオシステムは、

 

万人向けの音にしなければならない。

 

 

しかし自分の部屋で自分だけが聴く場合、

 

自分の財布と相談して

 

自分がいいと思う音を創り出し、

 

自己満足に浸れればいいだけである。

 

 

私はそこに、

 

この趣味の良さがあると思うし、

 

またこれはオーディオにかぎらず、

 

趣味とは本来そういうものだと思うのだ。

 

 

ひとはいつも、

 

他人の目を気にしながら生きている。

 

特に学校や会社では、

 

それに縛られてしまうのがふつうだろう。

 

 

しかし勉強や仕事を終えた後、

 

だれにも文句を言われずに

 

自分の趣味に没頭できる自由があれは、

 

それは、素晴らしい人生だと思うのである。

同郷の誼み

私はこれまで、

あまりフュギュアスケートを観てこなかった

 

唯一、注目したのはバンクーバーでの、

キム・ヨナ浅田真央の一騎打ちくらい

 

それが最近、観るようになったのは、

まちがいなく紀平梨花のおかげだろう

 

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しかし、優秀なフュギュア・スケーターは他にもいるのに、

なぜ彼女に惹かれるのだろうか?

 

その理由はいろいろある

 

シニアデビューするなりタイトルを総なめにしているところ

 

また、見た目はあどけない女子高生なのに

世界を股に大活躍しているギャップも魅力的だ

 

しかしもっとも大きな理由

それは出身地だと思う

 

彼女が生まれ育った兵庫県西宮市は、

私の故郷でもあるのだ

 

甲子園球場が有名で、

さらに「関西で住みたい街」でNo.1に輝いた西宮北口なんかがある

 

そのわりに、ここを出身とする有名人の名前はあまり聞かない

もちろん調べればいろんな名前が出てくるだろうが、

しかし、紀平梨花は注目度が違うと思う

 

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ほんとうに活躍が目ざましい

 

「彼女こそわが故郷の誇り!」

 

という感じがして、

それがたまらなくうれしいのである。

 

こんなふうに自分が直接知っている人物ではないのに、

出身とか暮らした土地が同じと言うだけで

親近感を持ってしまうひとは少なくないだろう

 

 それは人間の行動としてはごく自然だ。

 

だが、それはきっかけのひとつでしかない。

私はこうも思うのである。

 

じつは接点がまったくなくても、十分ひとはつながれるのではないかと。

 

そのひとつの可能性としてインターネットがあると思う。

 

おそらく、この文章を読んでくれているひとの大半は、

私のことなど知らないだろう

 

しかし、わたしのこのブログを読んで、

なにかぴんと来るものがあったら、

あなたとわたしの接点はすでにあるのではないか、

と思うのである。

 

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