私は小説を書いています。
とはいっても職業作家ではなく、
インディーズ作家として、なんですが。
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こう書くと、
「ああなんだ、ただのアマチュアか」
と思われるかもしれません。
しかし私は、
「アマチュアだからこそ、むしろ誇らしいのだ」
と考えています。
そして私以外にも、
様々なことに趣味レベルで取り組んでいる方が
いらっしゃるかと思います。
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が、そのなかにはアマチュアであることに
引け目を感じている方がいるかもしれません。
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それできょうの日記は、
他人の受け売りになってしまうのですが、
「アマチュアは未熟者の名称、
プロフェッショナルこそ誇らしい」
という世間一般に浸透している
イメージを覆すようなお話をしたいと思います。
来年、東京で56年ぶりにオリンピックが開催されます。
この大会は近代五輪の夏季大会としては32回目で、
1896年のアテネ大会で開かれたのが皮切りでした。
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そして、当時は厳格に出場選手はアマチュアのみ、
と定められていたのです。
さらにこの場合、アマチュアというのは、
アマスポーツ選手という意味だけではありません。
一切、なんの職業にも就いていないことが
条件になっていました。
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なので、
「本職ではパンを焼いているレスリング選手」
とか
「大工を生業としているマラソンランナー」
も参加できなかったのです。
では、この場合のアマチュアというのは
誰のことを指しているのかというと、
王侯貴族のことなのです。
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そして、プロフェッショナルというのは、
王侯貴族に雇われるひとたちのことを
指していたのです。
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プロといえば聞こえはいいですが、
実際には食べていくために作らなければならないため、
場合によっては「こんなの芸術じゃないよ」
としか思えないものであっても
「売れるから」という理由で、
世に出さなくてはならなくなります。
その点、アマチュアはその縛りがありません。
世間の価値観にとらわれず、
自分が心から
「これこそ真に価値あるものだ!」
と思えるものを
生み出していいことになります。
もちろんそうなると、
作品がお金になる確率は低くなりますが、
商業主義と一線を画した作品を
世に送り出すチャンスも生まれます。
『ひまわり』で有名なゴッホは、
生前まったく売れない画家でした。
宮沢賢治もその名が知られるようになったのは、
死後のことです。
ほんとうに価値のあるものは、
時代を超えて生き残ります。
たとえ今は収入にならなくても、
未来になにかを残せるのであれば、
その行いは最良のものとなり得るし、
誇るに値すると思うのです。
(プロとアマの原点については、ひろさちや氏の著書から引用させていただきました)