terra〜物語のガードナー

物語を紡ぎ出すことに人生を費やしているインディーズ作家・多部良蘭沙が、日常で感じたことを綴るブログです。どうぞ、よろしく!

気にしない、気にしない

 

これは以前、

私が利用していた

某映画サイトについての話です

 

このサイトには、

真面目に投稿しているユーザーが大半だったのですが、

なかには一風変わった投稿者がいました

 

それは映画の冒頭5分だけを観て

駄作だと決めつけ、

0点評価をつけるというもの

 

しかも、

それを何千回とくり返しているのです

(比喩ではなくて、何千回です)

 

ここでは男性と仮定しAさんと呼びます

彼の投稿は確かに優れたものではありません

はっきり言って〝嫌がらせ〟だと思います

 

しかし私が気になったのは

Aさんに対する他の投稿者の反応でした

 

何人かが怒りを表明し、

彼に対する誹謗中傷が飛び交ったのです

 

「A君の頭脳は幼稚園児並みだな

 いや、もはやミミズと同じレベルか」

 

やがてその批判は、

Aさんの投稿を削除しなかった

サイト運営者にも向けられました

 

しかし運営者は彼のレビューは削除せず、

彼に向けられた

誹謗中傷のコメントのみを削除したのです

 

すると怒りが沸騰しました

 

「こんな奴を庇うなんて

 このサイトの管理人は異常だ!」

 

私はそれを見て、ふと思いました

 

「むむむ? 異常なのかな」

 

 

Aさんの投稿が削除されなかった理由は、

個人に対する誹謗中傷が皆無だったからだ

と思われます

 

彼はどれだけ批判されても、

決して誹謗中傷は行いませんでした

 

一方で作品自体に対するレビューは、

たしかに作品に対する中傷ではありました

しかし汚い言葉は使いませんでした

 

またほぼ全作を低評価にしているため、

特定の作品に対する攻撃とは言えません

 

したがって、

投稿を削除しなかったことは

妥当な判断だろうと私は今でも思っています

 

ですが、Aさんを攻撃する方々は

それがますます不快だったようです

 

もし、そのサイトが閉鎖されなければ、

この問題は今でも続いていたかもしれません

 

 

当時をふり返って私はこう考えます。

これはAさんの投稿そのものが問題ではなく、

個人の受け止め方の問題ではないか、と

 

たとえばもし、

Aさんに投稿を辞めさせることが

できたとしましょう

 

しかし眉を顰めたくなるような投稿者は、

彼だけではありません

SNSなどではけっこう見かけます

 

するとそれによって、

また怒りが湧くことになるでしょう

その度に腹を立てて心は休まりません

 

しかし、受け止め方を変えれば、

どんな投稿者が現れても

心は平穏でいられるはずです

 

実際、私自身もそうでした

Aさんのレビューに一切目を通さないようにすると、

ほとんど気にならなくなりました

 

 

昔、SMAPの『世界で一つだけの花』

という歌が大ヒットしました。

 

この歌は一言で言うと仏教の教えであり、

お釈迦様が悟った『縁起の理法』に

基づいているのではないかと考えます

 

「いろんな花があり、それぞれがみんなきれいだ」

 

と花に喩えつつ、

様々な人々が存在することを肯定しています

 

ですから、今回の話に例えると、

 

「5分だけ観て0点をつけるユーザーもいいよ」

 

と言っているのです

 

「この世の中にはたくさんの人がいて、

 様々な人々がいるからいいんだ!」

 

そういった視点で他人を見られるようになれば、

日々を穏やかに過ごすことが

できるのではないかと思います

 

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魂だけは売らないで!

 

20年前、名古屋で暮らしていた頃、

私はあるSNSのオフ会に参加しました。

 

食事前の雑談中、プロ野球の話になりました。

とうぜんながら参加者のほとんどはドラゴンズファン。

しかし私は関西出身だからタイガースのファンです。

 

それが原因で険悪なムードになることはなかったのですが、

あるひとりが阪神に対してムカつきをあらわにしました。

よっぽど嫌いなんだなと思っていると、

じつは身内に阪神の選手がいるのだと話し始めました。

 

「その関係で、その選手のサイン入りの色紙が

 何枚か家にあるんです。別にいらないんだけどな・・・」

 

てっきりゆずってくれるものだと思って、

身を乗り出すと、

 

「いや、売りたいんだけど」

 

という返事。

私は思わずカチンときて、

 

「それなら結構です」

 

と返事をしました。

その方はかなり驚いた表情を見せました。

しかし私は、

そこまでファンではないからと退けたのです。

 

 

このあと彼がこの話を蒸し返すことはなく、

私も一切触れませんでした。

が、心のなかでは不思議に思っていました。

 

なぜ、阪神を大嫌いな中日ファンが、

その選手の色紙を後生大事に持っているのでしょう?

そんなもの、

捨てるか燃やすかなどすればいいのではないでしょうか。

 

いえいえ、もちろんわかりますよ。そうしない理由はね。

読者のみなさんもわかるでしょう。

 

でも私が話に乗らなかったほんとうの理由はわかるでしょうか?

 

 

この方は厳密には俗にいう〝転売ヤー〟ではないのだと思います。

が、精神は彼らと同じ。ようするに、お金がすべて

その欲望が、ほんとうに欲しいひとたちを犠牲にしている。

そう思うのです。

 

 

しかしその一方で、そもそも彼らが増えるのは、

買い手がいるからです。

これは特殊詐欺が減らないのと同じで、

根っこは同じだと思っています。

 

なので私自身は、彼らから一切何も買いません。

それが欲しいものだった場合でもきっぱりあきらめるか、

一般販売されているものなら高くてもそこで買います。

 

ですのでネットオークーションも今は利用していません。

転売で使えないものを買わされたことがあって以来、

やめました。

 

というわけで、出品もしていません。

たしかに家にある不要なものを整理できたらとは思うのですが。

しかし、

 

〝なんでもかんでもお金に換えることに

            目を血走らせているひとたち〟

 

のなかに入りたくないのです。

 

 

以前、あるテレビ番組で

巨人ファンを標榜するフリーアナが、

阪神のハッピを着るようにスタッフに命じられました。

 

それに対してアナはこう答えたのです。

 

「芸は売っても魂は売らないよ」

 

とてもいい姿勢だと思いました。

 

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たまには自分で踊ってみませんか♪

 

 

先月後半はスポーツが楽しい1ヶ月間でした!

とはいえ野球の話ではありません・・・

 

もちろんWBCにも感動しましたが、

私の場合それよりも注目したイベントがありました

 

それは〈世界女子カーリング選手権〉です!

 

 

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「えーっ、誰も話題にしていないのに・・・」

 

と思われるかもしれませんね。

が、私にとっては大注目のイベントでした

 

それはもちろん選手が美人揃いだから・・・

というのもありますが、

いちばんの理由は競技それ自体の魅力です

 

たった一投で状況が変わる

その緊張感がたまりません!

だから世間がWBC一色でも、

私はカーリングでした。

 

 

以前の日記にも書きましたが、

私は素直に自分がいいと思うものに注目するし、

逆にまわりが注目していても

自分がいいと思わなければ、

けっこう冷ややかです

 

たとえば数ヶ月前には

サッカーのワールドカップで盛り上がりましたね

私も日本代表が強豪に勝つ姿は

たしかに素晴らしいし感動しました!

 

でもそれだけです

Jリーグが始まっても、

サッカー場に足を運んだり

中継を観たりする気は起きません

 

その理由はサッカーというスポーツが、

サポーターが熱狂するほど

おもしろいと思わないからです

 

まず基本的にロースコアの展開が多く、

逆転に次ぐ逆転というのがめったにありません

つまり〝試合が決まってしまうのが早い〟と思うのです

 

たとえば後半残り10分でスコアが1―3だった場合、

まず勝ちは望めません

同点に追いつくのも難しいのではないでしょうか?

 

また時間でゲームが区切られるために、

リードしている側は逃げ切りを図ることができます

1点取ったら攻めるのをやめて

後方でパス回し・・・ がっかりです

 

 

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しかしもっとも試合を白けさせている立役者は

なんといっても〝オフサイド〟でしょう!

 

このせいで、ボールがゴールネットをゆらしても

私は歓ばなくなりました。

 

「ちょっと待て! まだわからないぞ」

と考えてしまうのです。

 

しばらく待って確実らしいとわかってから

ようやく実感するんですが。

でもほんとうはやっぱりその瞬間に

歓喜の声を上げたいんですよね。

 

 

私は別にサッカーを貶めたいわけではありません。

熱いサポーターは上記のことをわかったうえで

応援し続けるでしょう。

 

全世界での普及率が高く、

裾野も広いこのスポーツが衰退することはない。

 

でも、それ以外の方で競技そのものが好きではなく

「ただみんなが応援しているから自分も」という方も

けっこう多いのではないか、という気がするのです。

 

 

一方、カーリングがふだん話題にならないのは、

マイナーな冬季スポーツで

マチュアレベルでの活動しかないから——

そういったマイナス要因が挙げられるかと思います

 

しかしいちばん大きな理由は、

〝オリンピック以外でマスコミが話題にしないから〟

ではないでしょうか

 

五輪のときの盛り上がりや注目度から、

「競技そのものに魅力を感じている方は、

 じつは少なくないのでは?」

 

そう私は思っています

 

 

時にはマスコミに踊らされて、

ふだん観ないスポーツに注目するのもいいでしょう

まちがいなく一体感はあるし、

コミュニケーションのネタになりますからね

 

「でも、たまには自分自身で踊ってみませんか?」

 

というのが、私の提案です

 

 

 

わからないことは「わからない」ままでいい

 

 

昔、あるSNSの農業コミュに

こんなスレッドを立てている方がいました。

 

「最近、工場型の水耕栽培が増えてきている。

 天候に左右されず同じ面積で多くの作物を作れる。

 ならば、昔ながらの土を耕す農業をやめて、

 そちらへの転換を図った方がよい」

 

というものです。

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とうぜん、それに対して

否定的な意見が寄せられました。

 

「やはり野菜は土で育てるもの。

 そもそも水耕栽培では

 作れる作物に限りがある」

 

私もそう思いましたが、

そのスレ主はこう説明してきたのです。

 

「私は現在アメリカに住んでいる。

 この国では自然が身近だ。

 それにくらべて日本は自然が少ない。

 だから工場型水耕栽培に転換することで

 余った田畑を自然に帰した方がいい。

 そもそも農地には本来の自然はないのだから」

 

これはまったく理解に苦しむ意見です。

 

まず、日本とアメリカでは地形が違います。

日本の国土は山地が7割。

残り3割の平地に1億2千万人の国民が

ひしめくように暮らさざるを得ない結果、

自然との住み分けがはっきりしてしまう。

それは仕方がない話です。

 

しかも農地は田舎に多いため、

都会人が恩恵を受ける解決策にはなりません。

 

さらに田畑に本来の自然がないのはたしかですが、

宅地や工業地、商業地にもないのは同じです。

なのに、代替候補地は農地だけ。

 

私がその疑問をダイレクトにぶつけると、

「自分の実家が農家だったから。

 農家としての意見です」

というのです。

 

でも農家ならばなおさら

このアイデアは受け入れられなのでは?

 

長年耕してきた私有地を

何の利益も産まない土地に転換する

物好きがいるとはとても思えません。

 

さらに、そもそもそれが目的だというなら、

水耕栽培を普及させる話は

その手段に過ぎなくなってしまいます。

 

にもかかわらずそのスレ主さんは、

そちらにご執心なんですよね。

 

ずいぶんあとになって考えてみると、

たぶんこの方は、

 

水耕栽培になぜ賛成なのか、

 自分でも理由がよくわからず、

 苦し紛れに自然を増やす話を

 持ち出したに過ぎないのではないか」

 

と考えるようになりました。

 

 

人間はときどき、

自分でも理解できない情熱に駆られるものです。

 

たとえばこの私も小説を書いていますが、

じつのところなぜこれほど精を出しているのか、

さっぱりわからないのです。

 

でもこれはスピリチュアル的には意味があることで、

自分が信じるならば(それが違法なことでさえなければ)、

信じるままに動くことをお勧めしたい。

 

が、しかしその一方で、

 

「理由は自分でもわかりません」

 

と言えることも大切ではないでしょうか。

 

変な理屈を持って来られると、

かえって意図が見えづらくなり、

賛同する気もなくなってしまいます。

 

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〝少女〟だからこそ・・・

 

 

「あなたの愛読書は何ですか?」

 

そう聞かれれば、私は真っ先にこう答えます

 

「『アンネの日記』です!」と

 

男性である私がこの本を取り上げるのは、

すこし気恥ずかしい気もしますが

しかし感動したのは事実だから、

仕方ありません

 

それ以降、

アンネに関わるコンテンツは積極的にチェック

さらには

「実際にアンネが隠れ住んだ家を見たいっ!」

という目的だけでアムステルダムにまで行きました。

 

しかし、

あるときふとこんなふうに思ったのです。

 

「もしアンネが少年だったら、

 果たしてこれほど惹かれただろうか?」と

 

そもそも男の子だったら

日記そのものを書かないだろうから、

仮定が成り立たないような気がします

 

が、もし仮にそうだったとしたら?

おそらく私は

本そのものに手が伸びなかったかもしれません

 

というよりかそれ以前に、

そもそも出版自体がなかったのではないか?

と思えるのです

 

つまり、

「少女だからこそアンネは有名になったのだ」

と言っても過言ではないような気がするのです

 

 

実際に〝少女〟というだけで人々は関心を惹きつけられます

 

彼女と同じくらい有名な歴史上の人物として、

ジャンヌ・ダルクの名前があります。

火炙りにされて亡くなったのは19歳ですが、

歴史に登場したのは少女時代だと言われています

 

現代でも有名な少女がいます。

スウェーデンのグレタ・トゥーンベリさん

環境活動家として名を馳せたのは少女時代でした

 

そして日本にも。

北朝鮮拉致問題においてもっとも有名な被害者は、

横田めぐみさんではないでしょうか

 

被害に遭った当時、彼女は13歳の少女でした

それがマスコミに大きく取り上げる一因となり、

世間に衝撃を与えました。

 

はたして彼女たちが少年だったら、

これほどまでに人々の記憶に残ったり

世界を動かしたりする存在になったでしょうか?

 

私はよく自問するのです

 

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ちなみにちょうど今この時期はアンネが亡くなったと思われる時期にあたり、今年は没後77年。もし生きていれば92歳になります。

壁を超えて愛されるエンタメ

 

私は飽きっぽい人間です

ひとつ気に入った本を見つけると、

その著書や関連書籍を読み漁るのですが、

たいがいどこかで飽きてしまいます

 

しかし、これだけは別!

というジャンルがひとつだけ

 

それは〝脱北者の手記〟です

 

北朝鮮がたいへん特殊な国で、

その社会そのものに関心があるから、

というのが第一

 

しかし同時に心惹かれてしまうのは、

人間そのものが描かれている点です

 

たとえばひとは極限状態に陥ったとき、

いったいどんな行動を取るのか?

 

統制された管理社会で暮らしていても、

はたして人間性は残されているのか?

 

そこに興味が注がれるのです

 

 

さらにそういった本を読み漁っているうちに

ひとつ気づかされたことがありました

 

それは〝エンタメへの渇望〟です

 

すべての娯楽が

政治プロパカンダ化されている専制国家で、

人民は西側の歌や映画、ドラマなどに

楽しみを見出そうとします

 

しかしご存知のように、

これは非常に危険な挑戦で、

見つかれば拷問、強制収容所

そして公開処刑もあり得るのです

 

にもかかわらず、

それに群がる人民が絶えない

 

「空腹な上に、命がけ。

 それを押しても、だなんて!」

というのは少々不思議ですが

 

しかし逆に言うと、

それだけの魅力があることの証でもあります

 

人はパンのみに生きるにあらず——

イエス・キリストの言葉です

 

精神面でも満たされることの

大切さを謳っているとされています

 

それが現代社会においては

エンタメもその役割の一部を担っている

一部ではないか?

 

もちろん国民が幸福な人生を送るために

政治が正しく機能していることは欠かせません

 

しかしたとえ過酷な状態に置かれても

エンタメはその壁をも超えて愛されてしまう——

そこになんとも言えない喜びを感じるのです。

 

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映画館は人と人とを結ぶ

 

 

先日、数ヶ月ぶりにシネコンへ行きました。

「やっぱり外で観るのはいいなぁ!」と実感

正月映画が公開される今は話題作が目白押し

足を運ばれている方も多いと思います。

 

ただそうは言っても、

動画配信の方が便利なのは事実です。

近い将来、

こちらが映画興行の主流になる

と言われているのも納得です。

 

となると映画館の存在意義ってなんだろう?

という疑問に行き着きます。

 

一般的には大きなスクリーンや

高精度な映像に迫力のある音響、

さらには3D上映などが挙げられます。

 

ただ、

それはテレビが普及してから

強調もしくは差別化されるようになった長所で、

本来の特徴ではないと思うのです

(その証拠に画面が小さかったり

 音もふつうだったりする劇場があります)

 

数年前、

私は映画館を舞台にした小説を書きました。

その際、いろいろと調べたのです。

そして、ようやく気づきました。

 

映画館のほんとうの役割は

〝コミュニケーションを生み出すこと〟

ではないか、と。

 

現像したポジフィルムを回しながら

映し出す〝活動写真〟そのものは、

100年以上前にフランス人の手によって

発明されました。

 

しかし、映画館の元になる施設は

それ以前から存在していたのです。

 

それは〝歌劇場〟です。

 

中世の時代、

ヨーロッパの王侯貴族にとって、

外国や他の名家と交流を図ることは重要でした。

 

戦争を避ける、支援を得る、継承権を獲るなど。

そのためには親戚関係になる必要

(速い話が政略結婚ですが)がありました。

王子や王女のためにパーティーを開いたり、

舞踏会に送り出したり、

お互い招きあって狩に出かけたり・・・

などしていたわけですが、

 

そういった〝婚活〟のなかに歌劇場での

オペラ観劇やクラシック鑑賞も含まれていた、

というわけです。

 

映画館って、

今でもデートでよく利用されますよね?

それは、歌劇場だったときの名残みたいなもの

と私は考えています。

 

(ちなみに「ひとと会うのが口実だなんて、

 作品に向き合っているとは言えない」

 と考える映画ファンもいらっしゃると思います。

 しかし名作と言われるオペラやクラシックは

 今でも残っていますよね)

 

例えいっしょに観に行く相手がいなかったとしても、

他人とひとつの楽しみを共有できるのも映画館の特徴。

 

通常の上映でも感じることができますが、

〝声出し上映〟ならより顕著です。

コロナ禍で今は中止になっていますが、

同じように声援を送ることで、

ひととのつながりを実感できる場だと思います。

 

さらに付け加えると、

映画館が生み出すコミュニケーションは

その場に行かずとも預かれます。

 

公開作品はよく話題にのぼりますね。

これは映画興行に〝同時性〟があるからです。

 

限られた今の間だけ上映している作品が、

学校や職場、ネットで話の種になる。

そこから友好関係が生まれる。

これも映画館が果たしている役割のひとつ

ではないでしょうか?

 

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