terra〜物語のガードナー

物語を紡ぎ出すことに人生を費やしているインディーズ作家・多部良蘭沙が、日常で感じたことを綴るブログです。どうぞ、よろしく!

雑食宗教の弊害

 

 

ここ数ヶ月、

某宗教団体に関する問題で

ニュースは加熱しています

 

正直うんざりしているのですが、

触れてみることにしました

 

疑問がふたつ

 

そもそもこの問題は、

銃撃事件の容疑者の動機が

その団体にあることに

端を発しているわけです

 

これはある意味、

容疑者の願いを叶えてしまって

いるのでは?

 

トップレベルの政治家が殺されないと、

政府は動かないのか? 

 

また逆に、

殺害すれば世間が耳を傾けてくれるというなら、

これに続く者がまた現れるのではないか?

といったことが気になります

 

あともうひとつは、

この問題が日本人の宗教観に与える影響について

 

日本には土着宗教としてまず神道があり、

外来宗教として仏教やキリスト教などがあります

その上で、新興宗教がある

 

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さまざまな宗教を寛容に受け入れる

深い懐がある一方で

生活がそれに根付いているかといえば、

そうとは言えるひとは少ないのでは?

 

だからこそ、

新興宗教団体(と名乗る詐欺集団)の

魔の手が伸びてきた時に免疫がない

その結果マインドコントロールに・・・

と、そんな気がしています。

 

宗教信仰は消費活動ではありません!

高額なものを買わせようとしたり

寄付を募ってくる要求してくる教団については、

疑う必要があります

これは伝統宗教に置いてもです

 

たとえば阪神大震災のときの話

近所の寺が被害を受け、

再建のために私の実家に

300万円のお布施を募ってきたのです

 

たしかに実家はその寺の檀家です

でも我が家も半壊しているのです

ヘンな話だと思いませんか?

 

そういった理由から、

私は組織宗教とは距離を置くようになりました

 

現在、信仰しているのはスピリチュアルです

これに各宗教のいいとこ取りをして、

人生の指針にしています

 

そして、その信仰のためにお金を使ったことは

たまにしかありません

 

図書館で読めないものだけを買って

あとは一度だけ講演に参加した程度

その総額は、8年間でたった2万円ほど

それでも、ずいぶん楽になりました

 

最大の恩恵は、

この世に生まれてきた理由が理解できたこと

 

夢なんか叶わなくても構わない

と思えるようになったこと

 

そして死に対する恐怖がなくなったこと

 

この三つです

 

 

 

波に乗らない生き方

 

 

7年前にガラケーに乗り換えて以来、

久しぶりにスマホにもどってきました。

iPhone SEです。

 

Appleが出している製品の中では

もっとも廉価な部類。

 

しかし、

長く手にしていなかったせいか

高級感を覚えました。

性能と機能にも満足です。

 

 

私が最初にスマホを手にしたのは、

2008年の末。

 

当時は〝スマートフォン〟という

言葉すらありません。

 

ユーザーが非常に少なく同志は皆無。

 

友人からは、

「持っているひとに出会ったのは初めて!」

と言われたほどです。

 

そこまで考えてふと、

スマホ以外にも普及が始まる以前に

使い始めているものが多いことにも気づきました。

 

たとえばビデオデッキやパソコン、

インターネットなんかがそうです

 

ワープロ専用機も同様。

 その影響で、今でもかな打ちが身についています)

 

家電以外では、

外貨投資や投資信託といった金融商品

一般の銀行が扱い始める以前から始めていました。

 

またノンアルコールビールも、

国産品が発売される以前から

外国産のものを愛飲していたのです。

 

 

とはいえ私は、

新しい物が好きなわけではありません。

 

また他人と競争しているわけでもありません。

 

自分が求めるものを探したら、

いつの間にか先取りしてしまっていた、

というだけの話です。

 

そのため、

乗り遅れていたり知らなかったりするものも

たくさんあります。

 

BTSを初めて聴いたのは、つい先日です・笑)

 

 

しかし、だからといって

急いでみんなと合わせようとは思いません。

 

自分が必要とするまでは手を出さない。

 

これが私の生き方です。

 

 

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もはや笑いものにするしかない

 

 

ずっと以前、

テレビのバラエティー番組に対して

不快感を語る女優さんがおられました。

 

それは老人だけを集めたクイズ番組で、

飛び出した珍回答で笑いを取るというもの。

 

「年老いた方に失礼だと思う。

 敬意を払ってほしい」

 

そうおっしゃっていました。

 

たしかに〝歳上を敬う〟という

孔子の時代からの教えを考えると、

ごもっともな意見。

 

しかし冷静に現実を見て、

はたしてそうと言えるでしょうか?

 

 

ガンダム』の生みの親である

富野由悠季さんが、

このように語っていらっしゃいました。

 

昔は長生きできるひとが限られていた。

だから、

歴史や知識の伝承者としての老人は、

コミュニティーにとって貴重な存在だった。

 

しかし今は高齢化が進み、

愚にもつかない老人が増えてしまったのだと。

 

たしかにその通りだと私は思いました。

 

おまけに今は情報があふれているから、

個人の知識に頼らなくても

社会がまわりますからね。

 

ということは、

つまり前出のクイズ番組は、

社会が高齢者をどう扱っていいのか

わからなくなった末に

生まれた企画だろうと思うのです。

 

〝もはや笑いものにするしかない〟

 

この結論は、とても正直だと思います。

問題はこれが失礼にあたるかどうか。

 

私は仕方がないと思っています。

 

だってもともとは、年老いた方々が

〝今の若いもんは〟と言って

下の世代を見下してきた

歴史があるのですから。

 

ただ、年齢差別はいけないと思います。

 

あと、自分が歳をとっていく上で

気をつけなければ、と考えているのは、

笑いものにされる側にならないように

していかなくては、ということ。

 

若者に擦り寄る必要はない。

だけど、社会の足を引っ張ってはいけない。

 

この敬老の日に、そう思うのです。

 

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犯行当日の朝——

 

 

先日の安倍元総理襲撃事件は、

たいへんショッキングでした。

みなさんも驚かれたことと思います。

 

私はスピリチュアリストなので

死に対して否定的な考えはありませんが、

だからといって命が奪われることが

良いこととは言えません。

 

息長く政権を率いてこられた上に、

まだ若い〝早すぎる死〟

心が痛みます。

 

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ただ私はこの事件については、

加害者に目が行ってしまうのです。

そして、以前から考えていた

〝あること〟に思い至りました。

 

 

私は前に取り上げた

京都アニメーション放火殺人事件を始めとして、

川崎市登戸通り魔事件や北新地放火事件、

東海道新幹線車内殺傷事件などに

興味を持っていました。

 

これらは加害者が共通して

〝組織に属さない一般男性が、

 たったひとりで計画した犯行〟です。

 

さらにその経緯を追うと

(当人が死亡して不明瞭なものもありますが)

生活や人生に行き詰まった末での

行いのように思えるのです。

 

「そんなつまらない奴に高名な政治家や

 善良なひとたちが殺されてしまうなんて!」

と思いたくなるところです。

 

そういえばテレビでも、

とあるコメンテーターが

「死にたいなら他人を巻き込まずにひとりで死ね!」

と発言して共感を集めていましたね。

 

しかしむしろ、

そういった言葉が

彼らを追い詰めているのではないかと。

 

だから私は、

ここは逆に考えた方がいいと思うのです。

 

つまり、

 

〝どれだけ無名で社会に貢献していない

 ように見える人でも、

 ぜったいに馬鹿にしてはいけない〟

 

 ということです。

 

なぜなら、

これらの事件から透けて見えてくるのは、

ちっぽけな一個人であっても日本を大きく

揺るがせてしまう事実を示しているからです。

 

そして、同時に社会から爪弾きにされてしまった

他のひとたちの心の叫びをも

代弁しているような気がするのです。

 

もちろん事件そのものは許されないことですが、

だからといって切り捨てるのではなく、

むしろ彼らを思いやる心が大切な気がします。

 

 

犯行当日の朝——

彼らに対して、

もしだれかから一言でも

親切に声をかけられることがあったら?

 

ひょっとして、

その後の結果は大きく違っていたかも・・・

そう考えずにはいられないからです。

 

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犯罪者がもっとも恐れるものは?

 

 

とつぜんですが、

ジョニー・デップ主演の

『ニック・オブ・タイム』という作品を

ご存知でしょうか。

 

遠方から街に来た会計士が、

とつぜん見知らぬ男女に幼い娘を人質に取られ、

知事候補を暗殺しろと命じられるサスペンス映画です。

 

www.amazon.co.jp

 

90分間に起こった出来事を同じランタイムで描き、

主人公が陥った窮地が臨場感を持って伝わってくる作品で、

私はけっこう楽しんで観ました!

 

ところが、ずいぶんあとになって——

というか、ほとんど最近なのですが、

思いがけないことを知ったのです。

 

それは、

「素人を脅迫して暗殺させる理由がわからない」

という意見が非常に多いこと。

 

「自分たちで殺せばいいのに」とか

「プロの暗殺者に任せた方が早い」

などといった意見が挙がっているのです。

 

それらの感想は、私には衝撃でした。

たしかに劇中では説明されないものの、

すぐに察しがつくことだったからです。

 

素人に暗殺をやらせるのは、

自分たちを捜査線上に浮上させないための方策です。

 

現実に起こった事件では、

数年前に金正男がマレーシアの空港で

殺害された件なんかを思い浮かべれば、

すぐにぴんと来るはずです。

 

なぜこのような不理解が起こるのかというと、

 

〝犯罪者がもっとも恐れるのは

 自分自身の逮捕である〟

 

という現実が伝わっていないからだと思うのです。

 

たしかに映画や漫画では

その前提を描いていないか軽視している作品が多い。

ルパン3世ゴルゴ13も法に拘束されていませんが、

それは娯楽作品としてのお約束にすぎないのです。

 

たとえば、過去にこういう事件がありました。

オーシャンズ11』をくり返し観ているうちに

自分たちにもできるのではないかと錯覚し、

ほんとうにラスベガスのカジノを襲ってしまった、

というのです。

 

これは露骨にフィクションの影響を受けた例ですが、

ここで私が訴えたいのは、

 〝動機とは別に〟一般レベルの犯罪にも

じつは影響をあたえているのではないか。

 

たとえば振り込め詐欺の掛け子や受け子のバイト募集に、

応募者が集まってしまうという現実があります。

また、あおり運転などもそう。

 

こういった犯罪に

気安く手を染めてしまう例が絶えないのは、

捕まらない主人公を数限りなく見ていることと

決して無関係ではないのではないか?

 

ちなみに先月話題になった

誤送金使い込み事件の場合、

容疑者は使い込んでしまえば返す必要はない、

と考えていたように私には見えました。

 

私は自分で小説を書いていて、

映画やドラマを観るのが好きな人間です。

しかし現実はちがうのだと、

いつも自分に言い聞かせています。

 

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言わないのは礼儀

 

机に向かっている時間が長い私には、

マッサージが欠かせません。

 

担当してくださっているセラピストが

たいへん好感の持てる方であることもあり、

楽しく利用させていただいています。

 

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しかし最近、

とある質問箱でげんなりする投稿を読みました。

某マッサージ店を経営しているオーナーの方が、

特定の客人に対する不満を暴露していたのです。

 

投稿を読む限りそのオーナーに落ち度はなく、

問題があるのは客の方だというのはわかります。

また個人の名前や特徴を出しているわけではないので、

法律的にも問題ない。

許容範囲内の投稿だと思います。

 

とはいえ・・・

こうもストレートに感情をさらけ出されてしまうと、

読み手としては同情よりも不快感の方が強く残る。

正直、この方が経営されているお店には

足を運びたくないと思ってしまいました。

 

決してルール違反ではない。


だけれども、

たとえ匿名でも、

そういった感情を暴露しないことが、

礼儀なのではないかな

と思うのです。

 

 

私が子供の頃、

スチュワーデス物語

というドラマが放映されていました。

今となってはタイトル自体が死語ですが(笑)

でも当時はとても人気の番組だったのです。

 

そしてドラマのなかで、

教官や客室乗務員の見習生たちは

乗客のいない場所でも彼らを「お客様」と呼び、

けっして悪口は言いませんでした。

 

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もちろん航空会社が撮影に協力しているから、

ということもあったのでしょうが、

視聴者に対する配慮も兼ねていた。

 

だからリアリティーはないけど、

観ていて気持ちがいい。

最近はそういう心遣いが

忘れられているように感じられてしまい、

残念に思います。

 

 

犯罪歴のない殺人者

 

ウクライナ侵攻におけるロシア批判ついて、

こんな投稿を見かけました。

 

「他国への侵略は過去にアメリカもやっている。

 なのに今さらロシアを非難できるのか?」

 

というものです。

 

一見、とても的を射た意見のように思えます。

じつは私も若い頃はそう考えていました。

 

けれどもある時期から、

それはちがうと悟ったのです。

 

たしかにかの国は、

民主主義を広めるという美徳を口実に

数多くの植民地を作り出した蛮族的な国家であり、

アフリカの人々を連行して奴隷にし、

さらには鯨を乱獲した。

 

もっとも醜い行動は、

広島と長崎に原爆を落としたこと。

これはほんとうに腹ただしい。

 

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あの大国がそういったかつての〝悪行〟に対して、

きちんと真正面から謝罪したかというと、

とてもそうとはいえない。

 

ただ、

同じ過ちをくり返さないという姿勢は見せている。

 

これはつまり、

〝進歩した〟

ということだと思うのです。

 

進歩するために、

あえて悪行を重ねる必要がある——

 

これは個人でも同じだと思います。

 

「何言ってるんだ?

 俺はひとを殺したことはないけど、

 それが悪いことだって、知ってるぞ。

 そんなことは経験しなくたってわかる」

 

そう考える方がいるかもしれません。

 

でも、じつはそうではない。

なぜかというと私たちは、

 

〝犯罪歴のない殺人者〟

 

であり、

その記録と記憶がないのは

 

〝魂の歴史に秘められているから〟

 

であると考えているのです。

これは、どういうことか?

 

古代から中世の人々は、

今よりもはるかに低い倫理観のなかで

生きていました。

 

〝力による現状変更〟などは当たり前。

そもそも民主主義などという考え方はない。

 

権力者は意のままに振る舞い、

民衆に重税を貸し、

飢饉になると

貧しい農民から死んでいきました。

 

死刑廃止論という概念すらない。

日本では切腹

つまり自害によって責任をとる

という考え方が認められていました。

 

つまり、

命の重さは今よりずっと軽かったのでしょう。

 

 

しかし死んでも、

人間は消えてなくなるわけではない。

その多くはふたたび生まれ変わります。

 

ということはこれまで転生してきた過程で、

すくなくとも一度ずつくらいは、

加害者と被害者の両面で殺人を経験していても

何ら不思議ではない。

 

そして現代人の多くは

過去世の記憶はなくとも

無意識的にその経験を踏まえているから、

殺生に対して否定的かつ敏感でいられるのではないか。

 

もちろん今の時代でも、

他人を殺める者はいます。

これについてはどう説明するのか?

 

その場合は、

過去生にまったくその経験がないか、

あるかまだ学びの途中か、

もしくは今生が初の人生か、

そのどれかではないか?

 

そして進歩するために、

殺生の無意味さを学ぶために、

あえて罪を犯しているのではないか——

 

そう私は推測しているのです。

 

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