terra〜物語のガードナー

物語を紡ぎ出すことに人生を費やしているインディーズ作家・多部良蘭沙が、日常で感じたことを綴るブログです。どうぞ、よろしく!

宇宙飛行士とならぶ立派な職業

 

先月、民間事業で宇宙に飛び立った

日本人飛行士が話題になりました。

 

今では、

さほどめずらしいニュースでは

なくなりましたが、

その先駆けとなったのは

東京キー局のアナウンサーでした。

およそ30年前のことです。

 

中学生の頃、

天文少年だった私は

その企画にとても興奮し、

宇宙からの中継に見入りました。

しかし彼が地球に帰ってきた際の言葉に

がっかりしたのです。

 

「これからは

 足に地をつけて農業でもしたい」と。

 

記憶だけで書いているので

正確ではないかもしれませんが、

だいたいそんなニュアンスでした。

 

いずれにせよ私が期待していたのは、

宇宙に対する興味を

より深めるような言葉だったのです。

 

月や火星、

あるいはもっともっと遠く宇宙の果てまで

行ってみたい——

 

そんな言葉を期待していたのでした。

 

しかしあれから年月が流れていくうちに

私も考え方が変わり、

いつしか宇宙飛行士の言葉が

理解できるようになりました。

 

「自分は地球に生まれた。

 だから、この星で人生を全うすることは

 別に悪いことではないのだ」

 

そう思えるようになったのです。

 

そうして彼につづく人々が何人も現れ、

ついには

〝旅行として宇宙へ行く〟

という日本人も出てきました。

 

しかし私はそれうらやましいとは思いません。

強がっているのではなく、

ほんとうに興味がないのです。

 

ちなみに初代日本人宇宙飛行士は

その後テレビ局を退職し、

農業をされているのだそう。

 

宇宙探索には意義があるので、

それ自体を否定はしません。

しかし私は地道にこの大地を耕すひとも

宇宙飛行士と同じくらい立派だと思うのです。

 

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〝興味ない〟が次の興味への入り口になる

 

聞くところによると最近の若いひとは

自分が興味あることしか見ないのだそう。

 

それはなんとなくわかります。

私も惹かれるものにしか触れません。

 

たとえば音楽は、

J-POPもアニソンも英語圏のポピュラーも

ほとんど聴きません。

 

ラクゼーションミュージックと

シュラーガー(ドイツ語ポップスの一ジャンル)、

あとたまにクラシックと映画音楽を聴くくらいです。

 

とはいっても話題のものを無視するのは、

それを避けているからではありません。

 

単純に好みに合わないからです。

 

自分に合うものを追求した結果、

行き着いた先が皆が話題にしないものだった

というだけの話。

 

なので、音楽の話はほとんど誰とも合いません。

しかし別にそれで構わないし、

コミュニケーションにも支障は来しません。

 

私の場合、友人になる方は、

たいがい趣味が違うことが多いです。

 

共通の話題がなくても、

気が合うひとはいます。

 

でも、話しているうちに

相手が持っている趣味に自然と興味が湧き、

それに触れることでまた世界が広がります。

 

「どうして私は

これを知らずにすごしてきたんだろう」

と思うこと、数多いです。

 

興味や趣味をまわりに合わせる必要はありませんが、

時には他の世界を覗いてみましょう。

 

そのなかに、

あなたの人生を豊かにするものがあるかもしれません。

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命は公共財産

 

新型コロナで

亡くなった方が100万人を超えたそうです

(これを書いている9月28日現在)

 

もちろんそれは全世界での累計であって、

国内では1500人超(これも上に同じ)ですが、

それでも大変な数だと思います

 

それで私が思い出したのは、

阪神大震災当日の夜のこと

激震で住んでいた家が半壊したため、

庭にテントを張って家族とともに過ごしました

しかし興奮のあまりなかなか眠れません

 

それでラジオに耳を傾けていると、

死亡者が1000人を超えたと報道されたのです

 

この地震は私が生まれてから

はじめて遭遇した未曾有の災害だったので

「四桁ものひとが亡くなったのか!」と

たいへん驚いた記憶があります

 

その後、東日本大震災のような、

これを上回る死者が出る大型災害が起こりました

万人単位になると、

もう想像が及ばなくなってしまいます

 

それが今年は100万人ものひとが亡くなるとは!

 

ここでもうひとつ思い出すのは、

数年前に母が癌でなくなったときのことです

そのときは、家族と親族そろって悲しみました

 

亡くなるのはたったひとりでも、

それについて悲しむ人はその何倍や何十倍、

有名人なら何百倍、何千倍にも

ふくらんでしまうのです

これは途方もない数です

 

そう考えると、

やはり命は貴重です

 

にもかかわらず、

自殺者が絶えないことが気にかかります

 

人間、つい自分の命は

自分だけのものだと考えがちですが、

実際はまったくそうではないのです

 

命は公共財産だと思います

大切にしてください

 

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人間関係はプライスレス

 

レンタル家族というものが、

話題になっているのだそうです

 

派遣されたスタッフが、

依頼者の妻や子供を演じて

家族のにぎわいを楽しませてくれるのだそう

 

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こういうサービスに頼るひとは

未婚の男性がほとんどだろうと思ったら、

意外にそうでもない

 

かつて妻が健在で

子供がなついていてくれたころの家庭のふんいきを

もう一度味わいたいがために利用する男性もいるのだとか

 

あと、SNSに上げる写真の賑わしとして

いっしょに写ってくれるレンタル友達というものもあるそうです

 

こういうサービスが生まれるのは

とうぜん需要があるからで、

それを完全に否定するのはむずかしいと思います

 

しかしやはり私の感覚からすると、

答えは〝ノー〟です。

 

そう考える理由のひとつは、

まず仏教的に考えて、

それらが〝執着〟に当たると考えるからです。

 

あともうひとつは、

本来はお金に換算されるべきでないものが

経済活動のなかに組み込まれている

ということに対する嫌悪感です。

 

上に書いたサービスでは

相手役を演じるスタッフと

親密な感情が生まれてしまった場合、

そのひとは二度と派遣してもらえなくなるのだそう。

 

でも人間関係って、そういうものなの?

と思うわけです

(これはもちろん性風俗でも同じです)。

 

こう考えるのは、

私が小説を書いているからかもしれません。

 

人間関係こそ物語を動かす原動力。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を

挙げるまでもなく、

人間関係に枷をはめることはできないのです。

 

金木犀はトイレの香り?

 

私は毎朝、

プサンスーチョンを目覚めに飲んでいます。

 

耳慣れない名前だと思いますが、

これは中国で生産されている紅茶の一種で、

その多くはイギリスで消費されています。

 

茶葉を松でいぶした燻製紅茶で、

とても素朴なよい香りがします。

これは私にとっては〝餅つきの香り〟

 

子供の頃、

わが家では年末になると

むかしながらの方法で父と母が

正月に食べるための餅をついていました。

 

つく前に餅米を蒸す必要があるのですが、

そのときに窯に松の木をくべていた。

 

それが燃えるときの匂いが、

プサンスーチョンにそっくりなのです。

 

ところが、たいていこの紅茶を試された方は

そんなふうにはおっしゃいません。

 

正露丸のようなニオイがする」

 

という意見が一般的です。

 

調べてみるとたしかにその胃腸薬には

松が燃えたときの成分が含まれているので

よく似たものと受け取られてしまうとのこと。

 

わが家の救急箱には昔から正露丸がなかったので、

その点に気づかなかったのですが。

 

しかし、

素朴な松煙の香りが胃腸薬に例えられてしまうのは、

愛飲者としては違和感を拭えません。

 

それでふと思い出したのはずっと昔、

雑誌に載っていた宮崎駿さんのインタビュー。

 

金木犀の香りから、

トイレの芳香剤を連想してしまうひとが

増えていることを残念がっておられました。

 

私はそれにすごく共感するのです。

 

貧困格差が社会問題化していますが、

それでも中世の時代にくらべたら、

現代人の生活は豊かです。

 

しかしその反面、

人工物に囲まれて暮らすことが

当たり前になってしまった。

人間が自然から遠ざかることは、

はたして幸福なことなのでしょうか?

 

一見、

取るに足らない疑問のように

思われるかもしれません。

 

しかしウイルスや気象災害を持ち出すまでもなく、

自然とのかかわりは人間にとってはとても密接。

けっして小さくはない問題だと思うのです。

 

 

一体感のしわ寄せは・・・

 

前回につづいて

メディアの話になってしまう上に

イムリーな話題ではないのですが、

あえてこじつけます!

 

今、将棋界では藤井聡太七段の話題で一色。

たしかに若くしてこれだけの大活躍はすごいと思うし、

こんな時期だけに

明るい話題はありがたいと思うのですが。

 

しかしその一方でこうも思うのです。

「どうして、彼ばかり取り上げるのだろう?」と。

 

それで真っ先に思い出したのが、

女子ゴルフの話題。

 

昨年の秋頃、

渋野日向子が賞金女王になるかどうかが

注目されていました。

 

そのとき争った相手は

鈴木愛というゴルファーだったのですが、

彼女も日本人のはずなのに、

なぜかマスコミは渋野一色。

どのチャンネルでも同じなんですね。

 

むかしから

日本のマスコミはそのパターンなので、

それが当たり前。

しかしあらためて考えてみると、

みんながぜんぶ同じ方向しか見ていない

というのは不思議だなと私は思うのです。

 

たとえば、

新聞によってあつかうニュースが

まったくちがっていてもいいんじゃないかと思います。

あるいは、

チャンネルによって出演している芸能人がちがうとか。

同じジャンルの番組でも演出はさまざま、

みたいなことがあってもいいと思うのです。

 

そうならないのは、

皆が同じであるということに

安心感を抱いているからでしょう。

 

全員で同じアスリートやチームを応援する、

という一体感が心地いい。

 

でも、もし私が鈴木愛さんだったら、

賞金女王になったのに

だれも応援してくれないなんて、

すごくショック!

そう考えてしまわずにはいられないのです。

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奪われつつある〝考える機会〟

 

今から10年以上前のこと。

ネットでつぎのような意見を見かけました。

それは、

 

〝外国映画に字幕をつける際、

 通貨単位も日本円に換算してほしい〟

 

というものです。

 

たとえば

「身代金300万ドル用意しろ!」

というセリフがあったら

「身代金3億2000万円用意しろ!」

というふうに表示してほしいというのです。

 

その理由は、

外貨だと額がわからないからというものでした。

 

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外為法が改正され、

外貨投資も浸透してきていますし、

海外旅行を楽しむ日本人が増えている。

にもかかわらず、

こういう要望がでてくるのはどういうことか?

正直なところ、私は首を傾げてしまいました。

 

しかし、

こういった意見はけっして少数派ではなかったのです。

 

それに気づいたのは、

すでにテレビでは表現が変わっているのを知ったとき。

円に換算した額を

より大きく報道するようになったのです。

番組によっては

外貨表示を完全に外してしまうものがあり、

この傾向はニュースより、

バラエティー番組の方がより顕著です。

 

テレビといえば

私がもうひとつ気になっているのは、

外国語の吹替率です。

 

昔のテレビ番組は、

外国人へのインタビューシーンでは

字幕が主流でした。

しかし最近は、

日本語吹替の割合が多くなっています。

映画でも若年層向け作品では

吹替版での公開が一般的になりつつあります。

 

昔と違って

インバウンドで外国人が多く来日し、

海外で留学するひとが増え、

小学校でも英語を教え始めているというのに、

外国語が聞こえなくなりつつあるのは

なぜなのでしょう?

 

なぜ私がこれらを問題としているかというと

〝メディアが娯楽から学習する機会を奪っている〟

と感じられるからです。

 

たとえば外貨の価値を常に把握しておくことは、

世界情勢に通ずることにつながります。

また字幕映画を観ることは、

外国語の勉強になります。

 

これらは読書が国語の勉強になっているのと同じです。

〝娯楽のなかにも勉強の場がある〟

あるいは

〝娯楽それ自体が一種の勉強である〟

と言えます。

 

しかし最近のメディアの傾向を見ていると、

どうも娯楽のなかでまで勉強をしたくないひとが

増えているのではないか。

そんな一抹の不安がよぎってしまうのです。